競馬はアートだ。アーモンドアイは一個の芸術作品。

今日は、谷川俊太郎の有名な次の詩からお読みください。

ゆうぐれ   谷川俊太郎

ゆうがた うちへかえると
とぐちで おやじがしんでいた
めずらしいこともあるものだ とおもって
おやじをまたいで なかへはいると
だいどころで おふくろがしんでいた
ガスレンジのひが つけっぱなしだったから
ひをけして シチューのあじみをした

このちょうしでは
あにきもしんでいるに ちがいない
あんのじょう ふろばであにきはしんでいた
となりのこどもが うそなきをしている
そばやのバイクの ブレーキがきしむ
いつもとかわらぬ ゆうぐれである
あしたが なんのやくにもたたぬような

一読してみて、どうですか、感想は。
あんぐりと口を開けてしまうような、不思議な詩だ。
この詩の世界では、父母や兄の死が、日常の中で当然のように語られている。
「となりのこどもが うそなきをしている」
「そばやのバイクの ブレーキがきしむ」
のと同じテイストで家族の死体が併置されている。

ふつう、人の死、特に家族の死は非日常のものだ。
本来、異常であるはずの死体が、何気ない日常の風景の中に置かれることで、別の意味を帯びてくるように錯覚させる。

ニューヨークで前衛芸術運動をリードしたマルセル・デュシャンの「泉」という作品がある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/泉_(デュシャン)#/media/File:Duchamp_Fountaine.jpg

これは、男性用の便器デュシャンがサインしただけの作品だ。
私も美術館でこの作品を見たことがあるが、権威ある神聖な美術館の展示室に、便器としか見えないこの作品が置かれている光景は、何とも唐突かつ異様で、しかも滑稽だった。
美術を侮辱するようで、挑発的ですらあった。
この作品を最初に目にした人はさぞかし、驚いたことだろう。
ここにあってはいけないものが置かれているのだから。
この作品は、そういうインパクトを初めに与える。
そして、デュシャンの「泉」を見た人は考えるはずだ。
これは、一見して便器に見えるが、実は背後にもっと深い意味があるに違いない。
この作品に籠められた作者の隠された意味委を真剣に考え始める。
それこそ、罠にはまった瞬間だ。
非日常のもの(便器)が日常(美術品が展示されている美術館)に置かれることで、別の新たな意味を持ち始めるように誘導する。
だが、実は、新たな意味などないのだ。

谷川俊太郎の詩に戻ろう。
ここでも、父・母・兄の3つの死体が、まるでオブジェのように家の中に置かれている。
これを発見したときに驚いて、警察や救急車を呼ぶ展開であれば、それは、ドラマや小説の一場面となる。
詩では、この死体を平然とやり過ごす。

誰もがこの詩を読んで、作者の隠された意味やメッセージを考え始める。
デュシャンの便器のように。
私は、これを禁止するものではない。
しかし、詩はメッセージではない。
意味でもない。
谷川の上の詩は、異様な死の触感をつかめれば、それだけでいい。
何か奇妙で、かつ、ほっとするような矛盾した読後感。
これが、この詩の魅力だ。
それ以上でも以下でもない。

大切なことだから、もう一度書く。
詩は意味ではない。

つまり、意味を破壊すること。
そこにデュシャンや谷川の芸術の眼目がある。
意味に縛られ、捕らわれている私たちを嘲笑し、ぶちのめす。
作者のせせら笑いが聞えるようであれば、あなたも芸術に向かって一歩、前進した、いや後退した言えるのかもしれない。

唐突だが、競馬もある種、こうした前衛芸術に通じるものがある。

先日のアーモンドアイが勝ったジャパンカップのようなもの凄いレースを見たあとは、しばらく放心状態となる。

そこには意味を越えた何かがある。

議論好きな人は、レース回顧と称して、意味を語り始めるが、すんごいレースをあれこれ語り意味付けすることに、私は虚無感を覚える。

第38回ジャパンカップは、これまで競馬に対して抱いてきた既成概念を壊してくれた。それだけでいい。

あのようなレースで勝つ馬をあえて語るなら、「強いものは強い」という同語反復で語らざるを得ない。

そうした意味を越えた何か=強度を私たちにもたらしてくれる。だからこそ、

競馬は芸術だ。

そんな信念を抱かせてくれたジャパンカップだった。

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