NHKの連続テレビ小説「なつぞら」で北海道の晩成社が紹介された。
そこで、今日はこの晩成社とこれをつくった依田勉三について書いてみたい。
まず、下の写真をご覧ください。
皆さんは、この写真に写っている人物を見て、どのような印象を受けられるでしょうか?
私の持った第一印象は、異様なまでの目の力強さです。
強い意志と決意を感じさせます。
そして、遠いところを見つめるような視線。
その眼差しの先には、大きな大望を見据えている。
それと、魂の純粋さ。ピュアな精神が目の光に宿っています。
反骨精神にも似た大きいものに挑むものの目の輝きです。
男の名は依田勉三(よだべんぞう)。
1853(嘉永6)年生まれで、没年は1925(大正14)年。
嘉永6年といえば、浦賀にペリーが来航した年です。
勉三は伊豆国那賀郡大沢村、現在の静岡県賀茂郡松崎町の生まれです。
松崎と言えば、西伊豆にあたり、鉄道が通っていない不便なところ。
温暖な土地柄ではあるけれど、山が海まで迫る山がちな地形で、耕地面積が少なく、零細農家が海にへばりつくようにして、細々と農業を営むところでした。
勉三は狭い耕地の伊豆を離れ、広大な未開の原野が広がる北海道の開拓を夢見て、仲間を集め、晩成社を結成します。
1万町歩(100平方キロメートル)という途方もない面積の土地を開墾しようと計画を立て、出資者を募り、資金を集め、一緒に北海道へ移住する小作人を募集します。
1883(明治16)年、勉三は13戸27人の同志とともに十勝平野の下帯広(オベリベリ)の地に入植地を構えることになります。
この地を開墾して、大麦・小麦、茄子・南瓜・大根などの野菜や蕎麦、のちには水田や肉牛、乳用牛などの畜産・酪農経営まで幅広く手を広げます。
しかし、水田を除いて事業のほとんどが失敗に終わります。
原因はいろいろ挙げられますが、大きな要因としては、この地の厳しい自然環境を指摘できるかと思います。
瘧(おこり)という風土病がしばしば蔓延。
これは北方性のマラリアです。
普通、マラリアはハマダラ蚊が媒介する伝染病で、アフリカや東南アジアの各地に蔓延する熱帯性の伝染病というイメージを持ちます。
だから、本(「依田勉三と晩成社」井上壽著、加藤公夫編、出版企画センター2012年発行)で、北海道の十勝地方でマラリア流行と書いてあるのを見て、一瞬、嘘だろうと思いました。
しかし、その後よく調べてみると、事実であることが判明しました。
これは三日熱マラリアといって、48時間周期に高熱を出し、ロシアのシベリアや樺太、北海道でもかつては発症したそうです(現在では症例報告なし)。
この北海道の三日熱マラリアは、熱帯性マラリアと違って、命を落とすような深刻な事態にはあまりならなかったようです。
十勝平野に入植した勉三たちを苦しめたものはほかにもあります。 蝗害(こうがい)です。
これは何だかわかりますか? 下の写真を見てください。
画面一面を黒雲のごとく覆う黒い物体。
その正体は、バッタです。
この写真はマダガスカルで発生した蝗害の模様を撮影したものですが、このときは国土の三分の二がバッタで埋め付されたそうです。
勉三たちが入植した明治10年代、北海道は度重なるトノサマバッタの被害に苦しめられていました。
バッタの大群が飛来すると、穀物という穀物、あらゆる農作物を食い尽くします。
稲は根までそれこそ根こそぎ食べ、家の中に侵入したバッタは藁縄、藁むしろまで食べます。
入植者たちは、バッタの食害からわずかに残った馬鈴薯の葉っぱや茄子の茎を食べて飢えをしのぎました。
彼らを苦しめたのは、ほかにもあります。
猟師が草に埋もれた鹿の角を集めようと、野火を焚きます。
この火が延焼して家に迫ること度々。
失火で家が全焼して丸裸になって焼け出された家族もいます。
重い小作料に加えて、北海道に渡るときの旅費やその他の経費は借金となって、入植者たちの肩に重くのしかかる。
周囲には文化文明のもたらす娯楽は何もなく、村祭りや盆踊りで無聊をなぐさめる術もない。
冬は氷点下マイナス20度にまで達する極寒の生活に耐えかねて、逃亡する入植者があとを絶ちません。
1万町歩(100平方キロメートル)を15年で開墾する計画は頓挫し、やがて25年、50年と先延ばしされます。
一方、1883(明治16)年に下帯広(オベリベリ)に13戸27人で入植した人たちは1887(明治20)年には半分以下の6戸に激減するのです。
結局、依田勉三が北海道開拓のために興した晩成社は出資者に対して一度も配当金を支払うことなく、事業も失敗に失敗を重ねて、倒産寸前の状態となり、勉三の死後の1932年(昭和7年)に解散するに至るります。
依田勉三の挑戦は現在の十勝帯広地方の開拓には直接つながりませんでした。
しかし、開拓の先駆者としてのその苦闘は十勝の人々の記憶に深く刻まれ、るのです。
1941(昭和16)年に帯広神社社頭に依田勉三の銅像が建造され、大平洋戦争の金属供出でいったん国に取り上げられたあと、戦後の1952(昭和27)年になって治水の森公園(帯広市東15条南3丁目)に再建されます。
蓑を負い、鍬を携えた姿で十勝平野を睥睨するように立っているその姿は、私が写真で目にした勉三の強い決意と覚悟を忠実に表現しています。
二度にわたってこの銅像建立の資金提供から造立までを一切引き受けた人物が中島武市です。
武市はあのシンガソングライター中島みゆきの祖父であるということは案外知られていません。
ここまで、依田勉三と晩成社を中心に十勝平野の中心、帯広開拓の歴史について簡単に書いてきました。
東京在住の私は、遠く離れた北海道を旅するとき、広大な自然を前にして、感慨にふける一方、この風景は、手つかずの自然そのものではない。
先人たちが血と汗を流してつくりあげたものなのだ、という思いが常にわき起こります。
そのたびに先人たちの暮らしぶりに思いを致し、その苦労を知ることで、少しでも北海道会開拓当初の人々の生きざまに近づけたら、という考えで、博物館や資料館に立ち寄り、時間をかけて展示を見たり、ときには本を買い求めて細部を探求したりすることが多いのです。
この随想は、帯広市の百年記念館を訪れ(依田勉三の写真が掲示され、晩成社の歴史が簡潔に紹介されていました)、同記念館で購入した「依田勉三と晩成社」を読んだまとめた内容を主としています。
日本各地を放浪して、地元の方々がどのような思いで暮らしているかを知り、さらに今は亡き先人たちの魂に触れること。
それが、私の旅のスタイルになっているのです。