トンボ君と眼鏡くんの対談が、あまり受けがよろしくないようなので、ちょっとエクスキューズします。
私の文章に対する考えは、以下の通りです。
すべての言語表現はフィクションである。
これは、小説だろうが、ノンフィクションだろうが、同じです。学術論文も言語で書かれている以上フィクションといっても過言ではない。
でも、その反面、こうも言える。
いかなる言語表現も一抹の真実を含む。
ということです。
これが分かりづらいのなら、例を出します。
「みんなの1口馬主掲示板」はたまに荒れます。
この板を見て、ここに書いている人たちは「悪い人たちだ」とかつては思っていました。でも、そうではない。
匿名のネットの掲示板というフレームがあって、そこに書き込む人たちは、そのフレーム(枠、型)に内容やキャラクターを合わせて書き込みをしている。
(ノンフィクションや学術論文も一定の様式やルールに合わせて書かれている。これをフレームと呼ぶことにします。荒らしは、ネット上のルールを意識したうえで、あえてその逸脱行為を楽しんでいる。こうした意味で、荒らしもフレームから免れることはできないのです。)
あのように、人の揚げ足をとったり、誹謗中傷したりしているのは、ふだんもそういうことをする「悪い人」なのではなく、単に型に自分を合わせているだけなのです。
会社や家庭も同様で、そのフレームにみな合わせている。
でも、「本当の自分」を隠して、みなどこかで誰かを演じているということを言いたいのではない。
なぜなら、「本当の自分」など、どこにもないからです。
「本当の自分」や「こころ」となどというものは、ところてんにすぎない。
容器の形に合わせて押し出されてニョロニョロと出てくるものです。
であるならば、その型に合わせて出てきた言葉(書かれたもの=テキスト)すべてが、それぞれ、真実の一部を分有していることになる。
ネットで「悪い言葉」を書く人は、やはりその人のなかに「悪」を持っている。
でも、そんな人でも、家庭人や会社内では、優しい、家族や部下思いの一面もあるかもしれないのは否定できない。
このようなブログもフレームです。「トンボ君」も「眼鏡くん」も架空のキャラクターですが、私の一部であることは疑いようのない事実です。
ネット上では、このようなキャラが仮想のものだからと言って、信じないことがネットリテラシーだ、という考えもあります。
でも、これはずいぶんと固い考えかたであるように思います。
真実はどこを探してもないのだから、虚構と真実がないまぜになったものを、そのまま受け入れ、遊んでしまおう。
これが、私のスタンスです。
どうかこのことをご理解いただいた上で、これからもこのブログでの虚虚実実をお楽しみいただければありがたいと思います。
できましたら、みなさんもコメント欄というフレーム上で、みなさんのキャラをつくりあげて参加いただければ幸甚です。
ここは、毎日が仮装した渋谷のハロウィンなのですから。
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