カルロス・ゴーンは源頼朝だ。

源頼朝といえば、言うまでもなく、鎌倉幕府を草創した武将。

あまり知られていないことだが、源頼朝は暗殺された。

源頼朝は建久10年(1199年)1月13日に死去するが、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には、頼朝の死の詳細には触れていない。

建暦2年(1212)2月28日。死から13年も経ってから、ようやくその死の一端が記される。
武蔵国の大名稲毛三郎重成が、亡き妻(政子の妹)供養のために相模川河口に橋を架けた。その落成記念が建久9年(1196)12月27日に行われ、頼朝はそれに参列した帰り、落馬した。このときの傷が原因となって頼朝は死去したとサラリと触れられている。

一説には橋の近くの鶴嶺八幡宮の鳥居前にさしかかったとき、義経・行家ら一族の亡霊があらわれた。これに驚いた馬が暴れて振り落とされた頼朝が負傷したという。

奇妙な話だ。

源平合戦の百戦錬磨で源頼朝は乗馬にたけていたはずだ。

現代の競馬ジョッキーでも、落馬で死亡することはまれである。

落馬しただけで死ぬだろうか?

怨霊の出現はオカルトすぎるが、百歩譲って亡霊話が本当だとしても、馬が亡霊と気づくだろうか?

源頼朝は暗殺されたと考える。

下手人は東国御家人。北条氏か誰だか、氏名はわからない。

源頼朝は清和天皇の血を引く者として、源平合戦では、坂東武者の神輿(みこし)に担ぎ上げられた。

北条氏でも三浦氏でも、かれらはどこの馬の骨ともわからない、氏素性が不確かな坂東武者である。

桓武天皇の末裔(まつえい)である名門、平家本宗家を倒して権力を手中に収めるのは、頼朝のような貴種を棟梁(とうりょう)に仰ぐ必要がある。

こうして頼朝は幕府を開き、征夷大将軍となったが、お飾りにすぎない。

平家が壇ノ浦で滅亡したあとは利用価値がなくなった。そうしたら、さっさとお払い箱となるのが世の常である。

不審死を遂げたのは初代将軍頼朝ばかりではない。

その子の2代将軍頼家もその弟で3代将軍実朝も暗殺されている。

源氏の血は3代で途絶えた。

というより、平家滅亡という目的を果たしたあとは、源氏は目障りでしかない。

このような判断で頼朝親子は御家人たちによって抹殺された。

同じことは、ニッサンのカルロス・ゴーンにもあてはまる。

かつてのニッサン社員は落ち目の東国武士団だ。文化が進んだ西からカリスマを迎えて再起をかける必要に迫られる。

こうしてルノーブランドの貴種、カルロス・ゴーンを棟梁(とうりょう)に頂いて、傾きかけた流れを断ち切り、日産自動車はV字回復を遂げた。

目的を達成してしまえば、会長ゴーンは厄介者でしかない。

頼朝は暗殺されたが、現代の暗殺は社内クーデターで逮捕された。

源平合戦で平氏を血祭りにあげた頼朝は、大量リストラで手を血に染めたゴーンに重なる。

坂東武者のニッサンに推戴(すいたい)されてトップに君臨したゴーンは頼朝と同じ末路をたどった。

だからといって、ゴーンや頼朝を利用された人間、犠牲者とは思わない。

弟の義経を追放し、一族の多くを粛正した冷血の頼朝とニッサン社員の多くを追放して家族を泣かせたゴーンとは同罪だ。

貴種の血はいずれ途絶える。

これは歴史が証明するところの真実だ。

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コメント

  1. chougoro より:

    なるほど。
    確かに表現が悪いですが北条氏は頼朝を利用するために飼っていたし、奥州藤原氏は義経を飼っていた疑いが濃厚です。後白河はそれを見抜いて策略している。
    頼朝、義経、義仲の源氏のお子ちゃま。清盛亡き後の平家のお子ちゃま。皆、狡猾な爺達に翻弄されていたかも。

    ゴーンについては、トランプからの流れ同様、グローバル化への反動に感じます。

    • トンボの眼鏡 より:

      コメントありがとうございます。
      後白河黒幕説を唱える人はいます。岩波新書『応仁の乱』がバカ売れした呉座勇一は『陰謀の日本中世史』の中で、あまたある陰謀説を紹介しています。
      同書の中で、源平合戦後白河黒幕説を「結果から見た陰謀論」に分類し、批判しています。
      後白河法皇が頼朝追討の院宣を出したのは、義経に強引に迫られてのもので、自己の権力基盤である頼朝を弱体化させるようなことを自らの意志で行うわけがない、としています。
      これは、御家人による頼朝暗殺説批判の根拠にもなります。
      ともあれ、人は陰謀説の魅力にひかれるものです。